走る、泳ぐ、ダマす アスリートがハマるドーピングの知られざる科学

(原書名:Run, Swim, Throw, Cheat)

    定価 2,970円(本体 2,700円+税10%)
    原著Chris E. Cooper
    クリス・クーパー
    エセックス大学スポーツ運動科学部教授
    西勝英
    熊本大学名誉教授
    四六判・385頁
    ISBN978-4-7653-1757-3
    2018年09月 刊行
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    発売後、世界で絶賛されたドーピングについてのサイエンスエッセイが待望の翻訳!

    内容紹介

    “本書はドーピングの科学についての信頼すべき入門書だ!”
    ――ブライアン・ショーフィールド(サンデータイムス誌)
    “面白くて、そしてためになる本だ。 この夏のオリンピックのすばらしいおともとなるだろう”
    ――ケミストリーワールド誌
    “ドラッグがどのようにスポーツの成績に作用するのか、あなたはその核心となる説明を初めて知ることになるだろう”
    ――マーク・ペリーマン(モーニングスター誌)
    ”未来のアスリートたちに役立つ遺伝子工学に関する科学的なレビュー”
    ――クリス・モーム(インディペンデント誌)
    ”この本は一般向けに書かれている。しかし[専門家である]The Pharmaceutical Journalの読者にも読み応えがある。”
    ――デイビット・モッタラン (オリンピック・パラリンピックロンドン大会薬理・医療グループメンバー)
    ”スポーツ界においてドーピングがなぜこれほど意味をもっているのかを知りたいのなら、本書を未読ということほど悪いことはない。”
    ――アーロン・ハングリー(デイリーニュース誌)
    ”本書は、われわれがドーピングの問題を理解するために十分なお金と時間を使ってこなかったことを教えてくれた。”
    ――ジョッシュ・ロスマン(ボストン・グローブ誌)

    生化学と歴史、そして文化の3つの角度から、スポーツにおける「ズルの科学(ドーピング)」を捉える画期的なサイエンスエッセイ。

    血液ドーピングはどのように摘発されるのか、ステロイドはどのように筋肉を強化するのか、昨今噂される遺伝子ドーピングは検出可能だろうか? スマートドラッグはスポーツパフォーマンスにも反映される?などドーピングについての科学的な側面からだけでなく、古代オリンピック以来のスポーツ文化から競技者の精神史、あるいはパフォーマンス強化薬と製薬業界のつながりまで、生化学者として人工血液の研究を専門とするクリス・クーパー(エセックス大学)が世間を騒然とさせたドーピング・スキャンダルに触れながら多面的に考察している。

    日本語読者のために、原著出版から6年分をアップデートをするための14頁にも及ぶ原著者の書き下ろし(日本語版読者への緒言)を加えた全訳出版。

    序文

    日本語版読者への緒言

    原著版Run, Swim, Throw, Cheatは、2012年ロンドン・オリンピックの年に出版された。もちろん偶然の一致ではない! しかし、本書で取り扱った内容はけして時とともに色褪せるものではなく、この日本語版に記載されている全てについて、原著を執筆していた時と同様、科学的にも正しいのである。新たな薬物や検査方法の最近の話題については、(時々更新している)筆者のブログを参照されたい(www.runswimthrowcheat.com.)。

    実際に変わったのは、科学的な説明をするために例示するニュースのほうである。特に注目にするのは、ツール・ド・フランスでのランス・アームストロングのスキャンダルで、本書が出版された次の年に明らかになった。本書の初版時には何のきざしもなかったのである。2013年ペーパー・バック版執筆に際して訂正し、その版の序文では多くのページを割いてアームストロングの話題について記載した。

    2012年ロンドン・オリンピック開催期間中にはほとんどドーピングの問題はおこらなかったが、私はメダルが剥奪された競技を直接見ることになった。違反者はベルルーシの砲丸投げ選手ナゼドヤ・オスタプチュクである(本書を読めば、理解してもらえると思うが、砲丸投げ選手、特に女子選手にとっては、ドーピングで有利になるので驚く様なことではない)。ドーピング発覚当時、私は競技場でニュージーランドのジャーナリストの隣りに座っていて、彼はヴァレリー・アダムスが二大会連続金メダルとなることを喜んでいた。ただ、確かにアダムスがメダルを獲得するのだが、実際に授与されたのは、オスタプチュクがドーピングで国際オリンピック委員会から失格処分となったずっと後のことである。

    オスタプチュクが摂取していたのは、アナボリックステロイドであるメテノロンであった。この物質はアンドロゲニック(いわゆる男性化の)副作用がほとんどないと言われてアスリート達に好んで使われていたらしい。私はオスタプチュクが競技で捕まったことに驚いた。というのは。私はこの本の中で、注意深く計画する連中は、しかるべき大会の前に競技で捕まらない様あらかじめ十分な期間をもうけて薬物摂取を止めていると、かなり強調して記載しているからである。オスタプチュクはいまだにドーピングを認めていないが、思うに、彼女─あるいは彼女のチームは計算間違いをしたのではなかろうか。彼女の諮問聴取委員会でコーチのアレキサンダー・イェフィノフが彼女の食物にその薬物を入れたと訴えたので、一年間の出場停止と言う短い処罰を受けることになった。ベラルーシのアンチ・ドーピング委員会の委員長、アレキサンダー・ヴァンハードドロは、「彼はオリンピックを前にして彼女のパフォーマンスにいささか問題があるのを心配して、禁止薬物であるメテロロンを彼女の食べ物の中に入れたと、イェフィノフが告白した」と述べている。イェフィノフはその結果ベルルーシ・アンチ・ドーピング委員会から4年間のコーチ資格停止処分を受けている。

    しかしながら、それに続くできごとをみると、これが特別独立した出来事ではないことがみえてくる。最新の洗練された検査技術で古い尿サンプルを再検査したところ、オスタプチュクを含め八人のアスリートがドーピングで有罪と判定された(国際陸上競技連盟(IAAF)は2005年ヘルシンキ世界陸上選手権を、国際オリンピック委員会(IOC)は2008年の北京オリンピック)。明るみに出た話からすると、オスタプチェク(あるいは彼女のチーム)は当時検出されないとだろうと思っていた薬物を使用していたのである。今日の分析技術の進歩から見れば、彼らは薬物使用を止めるべきタイミングを間違っていたのである。

    この話に関連して気が滅入る様な話がひとつある。砲丸投げ競技の決勝戦の直後に、円盤投げイギリス代表のベネット・モースは「オスタプチュクはドーピングをしているに違いない」、その根拠は「彼女はまるで男の様だ」とツイッターにオリンピック選手村から書き込みした。私のブログの読者であれば、アスリートの名前を挙げてはっきりしない様な噂話で非難するのにはおおいに反対だということをわかってくれるだろう。このことは誰にでもドロを塗ることになるし、クリーンなアスリートにさえドーピングをしていると汚名を着せることになる。当時、モースは非難を受け、不愉快なツイートは削除された。オスタプチュクがメダルを剥奪されたと言う事実はもちろん驚くにはあたらないが、その後モースがツイッターで非難されることを招いたのである。本書を執筆にあたり、私は多くクリーンなアスリートが不当にも─特にインターネットで─非難されているのに遭遇してきた。モースのツイートは、特にその趣旨の正しさは証明されたのだが、こういった不当な非難をさらにもたらしてしまうという、好ましくない効果もつことになるかもしれないのだ。実際2012年ロンドン・オリンピックで最も注目されたドーピング・スキャンダルは、中国の水泳選手位イエ・シーウェンに集中した。彼女はこれまで一度もドーピングテストで陽性と判断されたことはなかったのだが、単に彼女が世界記録を破ったということから疑いが懸けられたのである。今日のような疑い深い世の中では、あまり極端な成績で勝ってはいけないということなのか……。

    それでもロンドン大会の本当のスキャンダルは5年後に明らかになった。ロシアの国家ぐるみの組織的ドーピングの存在が明るみに曝されることになったのである。〔ロシア反ドーピング機関元所長〕グリゴリー・ロドチェンコフ、ユリア・ステパノワといったロシアの内部通告者、ドイツのジャーナリストのハヨ・ゼペルト、それに世界アンチー・ドーピン機構(WADA)のディック・パウンドとリチャード・マックレンが座長をした独立調査機関報告の連携のおかげである。2012年ロンドン・オリンピック(もちろん2014年ソチ・冬期オリンピックでも)で何人のロシア選手がドーピングしていたかはわからないが、再検査の結果、二九個のメダルが返還され、その内一三個はロシアからのものであった。私の故郷であるロンドンでの競技を見に行った個人的な経験からすれば、あの街で多くの人々が今まで見たことがないほどこの上もなく幸福そうでウキウキとしていたのは、驚くほど高揚する経験だった。もし当時彼らがこれほどの「ズル」が行われていたことを知っていたなら、どんな気持ちになっただろう、と想像するに難くない。ここで述べておかなければならないことなのだが、ロシアはけして「国ぐるみ」の組織的なドーピングを未だに認めてはいない。否定しているために、2018年においても、国際パラリンピック委員会がパラリンピックでの出場停止処分としているのだが、国際オリンピック委員会はロシアをオリンピック・コミュニティーに復帰させることを妥当としている。

    2012年ロンドン・オリンピック、2014年ソチ冬期オリンピックから明らかになることは、検査官が腐敗していれば、それに、この種の「ズル」を国がカバー・アップする特異的な能力を持っているとするなら、薬物検査が如何に巧妙であろうとも関係ないことになる。科学的見地からするとより興味あることには、ロシア選手がドーピングに関連していることは、四〇年前の東ドイツ政府がドーピングを組織的に支援していたこととそれほどの違いはないだろう。ある種新たな潜在的にパフォーマンス強化に有利な薬物─科学的に有効とされていないにしても、例えばメルドニウムの様な新たな物質はあるが、強化プログラムの中心課題は、特に女性アスリートに強さとパワーを強化されるアナボリックステロイドである。実際のところ基本的な差は、女性アスリートにあからさまに筋肉がついている様には見せないよう低い用量から始めることで、ドーピングをしているのではないかとの疑いを減らすことである。違いがあるところと言えば、東ドイツ・プログラム以降血液ドーピング(EPO、輸血)の効果が発見されたことである。これは男性、女性アスリートを問わず、有利に働くのだ。本書の結論の一つは、ドーピングをして得られる真の「競技を変えてしまうような」利益とは、女性アスリートにとっては「パワー」競技でのステロイド使用、男性、女性アスリートを問わず「持久力」競技での血液ドーピングである。この結論は、何はともあれ、ロシアの密告者達の証言とロシア・プログラムについての世界アンチ・ドーピング委員会(WADA)の報告からも裏付けられたのである。

    WADA、IOCそれにIPCに対して、ロシア政府や〔ロシアの〕ハッカー集団「ファンシー・ベア」からの反撃があった。ロシア政府は世界のあちこちでドーピングが広がって行われているのに、特にロシアだけが名指しで非難されるのは不公平である、と訴えた。これはランス・アームストロングの詭弁弁護のようなものと言えるかもしれない。アームストロングは、相手も同時にドーピングをしていたのだから彼の七個のツール・ド・フランスのタイトルは保持できるはずだと主張した。私の見解では彼等の乱用はそのライバル達よりかなり破廉恥ではあるが、「ズル」はスポーツ界で広がっていると言う点でロシアとアームストロングの言い分は正しい。他のツール・ド・フランスの勝者二人は、ドーピングの罪で彼らのタイトルを失うことになった。そして、ロンドンでの二九個中一三個のメダル剥奪がロシア選手からだとすれば、二九人中一六人は明らかにロシア人ではないことになる。ロシアチームが検査されていた時と同じ2016年5月ケニア・アンチ・ドーピング委員会は、アンチ・ドーピング・プログラムの計画実行に関連してWADAから不適切との勧告を受けた。ケニアは2016年リオ・オリンピック開催前日に不適切勧告は解除された。2013年8月ジャマイカ・アンチ・ドーピング委員会の前理事、レニー・アン・シャーリーは、2012年ロンドン・オリンピックに先立って、競技前の適切な抜き打ち検査を行っていなかったことに関する彼女の懸念を表明した。その結果、2013年11月WADAによってジャマイカ・アンチ・ドーピング委員会(JADCO)は検査を受けることになり、JADCO全理事が退任となり、続いてジャマイカ・アンチ・ドーピング・プログラムが改良されることになった。続いて、カナダ・スポーツ倫理センターと新たな連携を結ぶこととなった。しかしJADCOは今も心配なくらい抜き打ち薬物検査を実施していない。ここに述べたことは、これらの国の個々のアスリートがドーピングの罪を犯していることを意味している訳ではないが、少なくない数の国々で効果的なアンチ・ドーピング・プログラムが適切に行われていないことが、スポーツはクリーンである、と信じることを難しくしているのだ。

    興味ぶかい─少なくとも科学的には─論点からのバックラッシュがハッカー集団「ファンシー・ベア」からもたらされている。彼らはアスリート達が治療上の例外措置(TUE)を使っており、それらは「合法的」なドーピングの一形態である、と訴えたのである。問題とされたアスリートは誰一人としてドーピングの罪には問われなかった。確かに、サイバー・ハッカー達から暴かれたケースの多くで摂取した薬物がパフォーマンスに有利であったとするのを見つけるのは難しい。しかし、科学的な見地から興味ある議論が行われている。TUEはアスリートに医学的な問題をパフォーマンス強化をもたらすことなく処理する目的で与えられている。TUEは、パフォーマンスを「できる」ようにすることであり、医学的問題を抱えたアスリートに健康な対戦者と競技上で同等に競技できるようにしているのである。そこで問題となるのはアスリート、コーチあるいは医師がそのシステムを利用してアスリートに有利にするよう「もて遊んで」いるかも知れないのだ。これは、イギリスでのオリンピックとツール・ド・フランスの優勝サイクリスト、ブラッドリー・ウイギンス卿が彼の季節性花粉症〔枯草熱〕治療のために〔合成コルチコステロイドの〕トリアムシノロンを過剰用量で摂取していたことが非難されて表面化したのである。医学的には第一選択薬ではないが、強力で長期間作用の抗炎症作用薬であるコルチコステロイドであるトリアムシノロンは、一部の医師達によって花粉症や鼻炎の治療に使われている。これを非難する人達の訴えでは、トリアムシノロンの副作用は体重減少であり、サイクリストは体重をへらすことができるが、パワー減少はなく、坂を上るのに潜在的に有利に作用する、と言うのである。確かにこれは面白い考えではあるが、科学的な根拠は弱く、それにウイギンスと彼の雇用チーム、チーム・スカイはそれが何であろうとパフォーマンスの有利性は一切ないと強く否定した。WADAはこの治療例外処置を認めていることに留意すべきである。

    イギリスで最近問題となっているのは、気管支拡張薬であるサルブタモールの吸引である。これは喘息を持っている多くのアスリートが呼吸を楽にするために用いられている。そして(通常摂取の基準は八時間に八回の吸入である)サルブタモールを短時間大量に吸入する必要がある場合に限り、サルブタモールについてのTUE(申請)が必要である【逆に言えば基準以下であれば申請せずに使用できる】。この量を超えて吸入した場合、果たしてパフォーマンス強化作用があるか明らかではない。短期使用の効果についての報告はない。一方、WADAは長年に渡り高用量を摂取すれば筋肉量を増加させる、と主張している。しかしながら、一旦制限用量が決められると、取り締まりの対象となる。イギリス人のツール・ド・フランスで数回優勝しているクリス・フルームは、2017年のラ・ヴェルタでの優勝で採取された尿中に高濃度のサルブタモールが検出されたことで、最近検査の対象となっている。WADAは尿サンプル中のドーピング閾値濃度(1000ng/ml)を設定しているが、アスリートが八回以上吸入しない限り、その濃度に達成するのは難しい。ただし最近の研究による反論もある。それによれば、サルブタモール吸引により体内に吸収されて尿中に現れる値には高度のばらつきがあり、許容吸入回数を超えていない人でも、場合によっては閾値濃度を超えることがありうる。

    フルームとチーム・スカイは、彼があまりにも高濃度の薬物を摂取したのだ、という指摘に異論を唱えている。結果として表面化する問題は、全て科学上の問題である。フルームはかけはずれた尿中濃度に対してもっともらしい説明をして、アンチ・ドーピング機構を信じさせることができただろうか? ある条件下である時期にフルームの尿で閾値濃度を超える値に達した時があったのだろうか、一方、単に許容された量の薬物を摂取していたに過ぎないのではなかろうか? フルームはヴエルタでの残りのレースでは一貫してドーピング閾値用量以下であったし、全シーズンを通じて競技での数回の検査でもそうであった。という訳で、WADAが訴える様な長期乱用によるパフォーマンス強化作用を狙っていたとはとてもあり得ない。この例を報告している人達の誰もが、フルームの批判者でさえも、フルームがサルブタモール乱用から短期的パフォーマンス利益を得ただろうと訴える者がいないことには注目に値する。議論は検査の科学的問題と規則が破られたかどうかに焦点が当てられた。2018年のツール・ド・フランスの一週間前に国際自転車競技連合(UCI)は、フルームは何らドーピング違反をしていないことに満足したと宣言しており、このUCIの決定に対してWADAは異議を唱えていない。このUCIの決定は、フルームの薬物代謝の科学的状況についての情報を含め、チーム・スカイとWADAから提供されたデータの専門家による詳細な分析結果に基づいている。時に、エリート・サイクリングについてみた場合、その実際のアクションと同じ様に科学の下支えが必要である様に感じるのだ。あまり驚く様なことでもないのだが、私の本を発表した時、サイクリング・ファンの人達が読者の中で最も知識が豊富であることであった!

    この本の出版以来ポーツ科学分野でホットな話題となっているのに、女性スポーツでのハイパーアンドロゴナドリズムで(過剰アンドロゲン分泌症)とトランスジェンダー(性同一障害)のアスリートである。ハイパーアンドロゴナドリズムは性ホルモンであるテストステロンの値が平均値より高く(男性のレベルと同等)、同時にそのホルモンが身体的効果を発現している女性と定義されている。

    これはドーピングの問題ではない。誰もそのアスリートが「ズル」をしていると非難しない。しかし、ある面では科学と関係しているのだ。多くのスポーツが男女別のカテゴリーに分けられている。皮肉な見方をすれば、あるアスリートがそれを利用して「ごまかそう」と試みれば、男性が女性の仮面を被り有利に立つ、と言う懸念が生じるのである。本書で検討しているが、性別の領域を如何に「捜査する」かは、歴史上多くの困難と偏見との戦いであった。ほとんどのスポーツではこの問題は密かにに忘れ去られてきた。しかし、社会が変ってくると、これを無視のヴェールで包んでおくことが難しくなってきた。トランスジェンダーと中性の人達をそれぞれ個性を持った個人として受け入れる風潮が次第に増えてきた。彼らがどんな立場なのか偏見をもってみてはならないのである。さらに、性別は法的に自己決定権に属するとする国の数が増えて来ている。これ等の事実は、性別と生物学的性別の政策についてスポーツ規則策定者に当面の問題として直面させることになってきた。

    世界陸上競技連盟(IAAF)と、ごくごく最近であるがIOCが、科学的に女性性別カテゴリーを決める動きを始めた。2011年にIAAFによって承認された宣言「ハイパーアンドロゴナドリズムの女性の女性競技への参加に関する規則」では、「許容された値(男性におけるホルモン値)以上のテストステロンを示すいかなる女性も、その測定値が減少していることを確認されない限り、競技に出場することはできない」、としている。通常これにはある種のホルモン摂取、あるいは薬物治療が必要とされる。IAAFの議論の焦点は、男性エリート・アスリートと女性アスリートとのスポーツ・パフフォーマンスにおける差は圧倒的に男性でのテストステロンの高いレベルによっている、ということである。これこそ女性がアナボリックステロイド(テストステロン)でドーピングをして、男性と比較してより大きな利益を得ようとする理由なのである。それ故、生まれつき高いテストステロン・レベルを持った者が、ドーピングと同じ有利性を持って競技に参加するのは、「フェアではない」。IAAFは「ハイパーアンドロゴナドジェニック」アスリートを非難している訳でもなく、彼らは「女性」であることに異議を唱えているのでもなく、単に彼らは適切な治療を受けなければエリート・女性競技への参加を認めるべきではない、としているのだ。

    インドの短距離選手、デュティ・チャンドは彼女のテストステロン値を下げることを拒み、規則の法的問題に挑戦してスポーツ仲裁裁判所(CAS)に訴えた。CASは2015年7月24日仲裁裁判で暫定的判決を出した。CASは2年間の規則執行停止判決をし、IAAFにハイパーアンドロゴナドジェニックのアスリートで高いテストステロン・レベルとアスリートのパフォーマンス増強効果との間に定量的な関連についての科学的根拠を示す機会を与えたのである。この長い裁判結果を要約すると、基本的にIAAFは、生まれつきの(内因性)テストステロンは女性アスリートに不自然に摂取した(外因性)テストステロンでドーピングした者と同様の利益をもたらす、と主張した。CASはこの考えに原則的に異議をはさまなかったが、証拠をみたいとした。そこで2015年以来、再び女性アスリートは高いテストステロン・レベルをチェックされずに競技に参加が許される様になった。

    CASの決定はIAAFとWADAが資金を提供する研究調査の緒となり、2011年と2013年IAAF世界選手権大会で競技したエリート・アスリートから2000例以上を観察対象とした。テストステロン血中濃度測定とパフォーマンスとの関連について調べられた。アスリートをテストステロン血中濃度、高値、中間値、低値のグループに分けて調査した所、高値テストステロングループに属する女性アスリートは四〇〇メートル走、四〇〇メートルハードル、八〇〇メートル走、ハンマー投げと棒高飛びで有意に高いパフォーマンスを示した。四〇〇メートル走、四〇〇メートルハードル、八〇〇メートルで高いテストステロン・レベルと酸素運搬蛋白であるヘモグロビン濃度との間に相関関係が認められた。このパターンは男性アスリートには認められなかった。別の研究では、血中テストステロン・レベルが男子の平均値と同じ女性アスリートの場合、血中テストステロン・レベルを低下させた時に比べて、テストステロン・レベルを調整しないままにした時では平均5・7パーセント良いパフォーマンスを示した。
    新たな科学上に進展は、「性的成長過程に置ける差(DSD)」を有するアスリートに対するIAAF適格性規則を新たに制定することになった。DSDの女性アスリートが四〇〇メートル走、四〇〇メートルハードル、八〇〇メートル走および一五〇〇メートル走の国際競技に参加するためには、彼女の血中テストステロン・レベルを5nmol/L以下に維持することが求められるのである。このことは、キャスター・セメンヤの様なアスリートは、それぞれ好みの競技に参加しようとすれば、テストステロン・レベルを低下させる薬物治療を受ける必要がることを意味している。IOCはトランスジェンダーのアスリートに対する新たなガイドラインに同じ様なレベルの制限を盛り込もうとしている。後者の場合、少なくとも現在の医学的治療では、この低いテストステロン値をトランスジェンダーの個人に対して男性から女性への移行する値とすることを目的としている。

    では、このことと本書に記載したドーピングとはどの様に関連するのだろうか? 2012年ロンドン・オリンピックは、キャスター・セメンヤの様な世界チャンピオンのハイパーアンドロゴナドジェニックのアスリートが彼女等のテストステロン・レベルを制限する規則下で競技に参加した最初のオリンピックとなった。彼女等のランニング・タイムは確実に遅くなったが、それでもセメンヤは800mのタイトルを得ることとなった。ただし当日のレースでは二着となっていたのである。一着はロシア選手、マリア・サビノワだった。しかし、2014年彼女はテストステロンの注射と禁止されている経口ステロイドであるオキサンドロロンを摂取していたことを認めたことを隠しカメラに映されて、捕まることになった。このことが、WADAが彼女の血液サンプルを再検査することになり、彼女は2010年と2012年の間に血液ドーピングをしていたことが判明した。彼女のロンドンの結果は失効とされ、その代わりにセメンヤが金メダルを獲得した。サビノワはその後IAAFから4年間の出場停止処分を受け、この決定は2017年2月スポーツ仲裁裁判所(CAS)からも支持された。サビノワは現在この判決に対して控訴しているが、彼女のロンドンの結果は失効されたたままで、セメンヤが金メダルを保持している。サビノワはセメンヤにはレースで勝ったのかしれないが、明らかに(本文を執筆時、控訴は未解決)彼女は筋肉量増加目的でステロイドを摂取し、ヘモグロビン量増加目的で血液ドーピングでズルをしていたに過ぎないのである。800mはパワー(筋肉量)と持久力(酸素供給)の両方が必要な競技である。テストステロンは男性に誕生した時からずっと筋肉量と血液ヘモグロビンの増加の両方を促して来たのである。ドーピングあるいはハイパーアンドロゴナドリズムはこの男性が有利な点を模倣しようとするものなのだ。

    この本をもう一度書くとすれば、プロローグでとりあげたソウルでのオリンピック一〇〇メートル短距離走のベン・ジョンソンの優勝や、ヘルシンキ世界陸上一五〇〇メートル走決勝で次々にゴールラインを超えた五人の走者、後に彼らが選手生活中にドーピングで捕まったのだが、そういった連中に焦点を当てては書かないだろう。そのかわりに、〔セメンヤとサビノワの〕2012年ロンドン・オリンピック競技の八〇〇メートル走を提示するだろう。確かに、ドーピングの科学には複雑な要素があり、本書が読者はこのことの理解の手助けとなることを希望し、同時に興味深読んでもらいたい。しかし、鍵となるメッセージは単純である。本当に有効なのは、そしてゲームでの「ズル」とは、筋肉量を増やすアナボリックステロイドの使用(特に女性アスリート)と全てのアスリートでヘモグロビン量を増やす血液ドーピングなのである。あとは全て雑音に過ぎない。

    これらの新たなIAAFのDSC規則が競技時に適用されるか、あるいは新たな法的問題に直面するか、はっきりしない。パフォーマンスに有利に働くたった一つの遺伝的な差に焦点を当てることが、はたして倫理的だろうか? テストステロンは性決定の鍵となるホルモンであるが、女性あるいは男性でパフォーマンスを決定する唯一の分子ではない。それらの分子の多くは同じ様に遺伝子的に決められているだろう。究極的には答えは科学にではなく、社会が受け入れるものにあるだろう。私は幸いなことに、2017年世界選手権が開催されたロンドン・オリンピック・スタディアムに再び座ることになった。この大会はIAAFハイパーアンドロゴナドリズム規則が一時停止された時期に開催された。私は、六万人以上のスポーツ・ファンとともに、キャスター・セメンヤが2012年ロンドンでは達成できなかった八〇〇メートル走で優勝するシーンに喝采したのである。一〇〇メートル走で優勝したドーピング前科者のジャスティン・ガトリンにブーイングした同じ観衆が、セメンヤを支持して立ち上がったのである。ハイパーアンドロゴナドリズム規則が停止されていることが、彼らの喝采を止めることにはならない様だった。スタディアムにいる誰もが「アンフェア」な勝利だとは感じなかたのだ。

    2018年8月
    クリス・クーパー

    目次

    日本語版読者への緒言(※PDF見本あり)
    ペーパーバック版への緒言
    はじめに――2つのレースの物語
    第1章 序―― はじめに
    第2章 ヒトのパフォーマンスの限界
    第3章 エンジンを稼働する――食物
    第4章 エンジンを動かす――酸素
    第5章 筋肉を増やせ
    第6章 ステロイドと筋肉強化薬の将来
    第7章 興奮薬
    第8章 遺伝子ドーピング
    第9章 ズルとは何か?
    第10章 ごまかす者を捕まえる――ドーピング摘発
    第11章 最終章
    参考図書
    訳者あとがき

    執筆者一覧

    クリス・クーパー(エセックス大学スポーツ・リハビリテーション・エクササイズ専攻 生化学教授)
    著書
    走る、泳ぐ、ダマす アスリートがハマるドーピングの知られざる科学[Run,Swim,Throw,Cheat; Oxford University Press(Oxford University Press,2012)]
    Blood: A Very Short Introduction (Very Short Introductions)(Oxford University Press,2016)

    西勝英(熊本大学名誉教授,桜十字丸田病院院長理事長)
    著書
    本当に怖い薬物依存が分かる本(西村書店.2014)
    療養病棟5人の患者さん.(熊本日日新聞.2015)
    スポーツと薬物.(医薬ジャーナル.1994)
    薬・毒物中毒救急マニュアル.(医薬ジャーナル 2003)

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